すごくかんたん。三人称と一人称、小説の視点の違いと使い分け
感動したり、考えさせられたり、泣いたり、笑ったり、小説は豊かな体験を私たちに与えてくれます。そして、楽しむだけでは飽き足らず、自分も同じような素晴らしい体験を他の人に提供したい、小説を書いてみたい! そう思って皆、小説を書き始めるのです。
さあ、いざ小説を書いてみようと思うと、最初にぶつかるのが「視点」の問題です。
視点というと難しそうに感じますが、それほど難しい話ではありません。その説明を始める前に、まずは、色々な文章を見てみましょう。
色々な文章
小学生の時に書いた作文や、小論文・研究論文などの論述、メールやブログなどの文章、そして小説。文章にはいろいろな種類があります。これらの文書にはどんな特徴があるでしょうか。
作文:私は、昨日遠足に行きました。楽しかったです。
論述:遠足は児童の発達のために集団で遠出をする行事です。
メール:昨日遠足に行ったんだ。楽しかった。
小説1:私は昨日、遠足に行きました。楽しかったです。
小説2:アカネは昨日遠足に行きました。楽しそうでした。
それぞれ微妙に違いますね。何が違うのでしょうか。
これらは「話し手」がちがうのです。
作文:私は、昨日遠足に行きました。楽しかったです。
作文の話し手は「私=作者」です。作者が自分に起きた出来事や、考え方を書いているのです。
論述:遠足は児童の発達のために集団で遠出をする行事です。
論述の話し手は、「世間一般」。世間一般、などというと抽象的でイメージしにくいので、TVのニュースでアナウンサーが話している様子を想像すると良いでしょう。「昨日、~で式典が行われました。」というときのアナウンサーの立場は通常、世間一般です。
メール:昨日遠足に行ったんだ。楽しかった。
メールは作文に似ています。「私=作者」です。ただ、メールの相手は作者のことをよく知っていたりしますので、情報が絞られ、文体が崩れていたりします。例文でも「私」が省略されていますね。
小説は2つのパターンがあります。
小説1:私は昨日、遠足に行きました。楽しかったです。
1つ目は一字一句作文と同じ文章です。でも、作文の文章とは違います。どこが違うのかというと、作文は「私=作者」ですが、このタイプの小説の場合は「私=主人公」なのです。「私」と書いてあっても、主人公がアカネさんならば、「私=アカネ」ですし、タカシくんなら「私=タカシ」ですね。
作者自身が主人公になる場合もありますが、その場合は作者が小説の登場人物になっていると考えます。
実はこれが「一人称視点」と呼ばれる小説の文章です。私が、僕が、俺が、ボクが、など、言い方は様々ですが、私=主人公の関係が成立しています。
もう一つの文章は、三人称視点と呼ばれます。
小説2:アカネは昨日遠足に行きました。楽しそうでした。
小説っぽい文章だと感じた人もいるかもしれません。物語を語っているのは、私でも、もちろんあなた(読者)でもない第三者、いわば「ナレーター」です。ナレーターが第三者の視点から語ってゆく形式が三人称視点です。
小説には、この2つの視点があります。どちらも得意な表現と、苦手な表現があり、どちらを選ぶのか、小説を書き始める一番最初に決めなくてはなりません。なぜなら、途中から変更するのは大変だからです。小説を書こうとしたときに最初にぶつかる、とはこのような理由からなのです。
次は2つの特徴をそれぞれ見ていきましょう。
一人称視点の特徴
一人称視点の得意なこと
主人公の心理を表現するのが得意です。何しろ主人公自身が語っているのですから。また、書き手にとっては書きやすいかもしれません。自分が主人公になりきって書けばいいので、日記や作文のように書くことができます。
読者も、主人公になりきって読めばよいので、読みやすいでしょう。
一人称視点の苦手なこと
主人公以外の心理を直接描写できない
苦手なこともあります。主人公が見たもの、聞いたこと、感じたことを書いてきますので、主人公以外が感じたものは書くことができません。
「ピーマンは食べたくない。」
山田君はそう言った。
私は彼の言ったことは理解できた。だれもあんなに苦いピーマンを食べたいとは思わないだろう。
とは書くことができても、
ピーマンは食べたくない。山田君はそう思った。
私は彼の気持ちは理解できた。だれもあんなに苦いピーマンを食べたいとは思わないだろう。
はNGです。私が話しているので、山田君が思ったことを「思った」と書いてはいけません。ただし、山田君が思ったであろうことを主人公が想像した事実を書くのは問題ないのです。
ピーマンは食べたくない。山田君はそう思ったのだろう。
私は彼の気持ちは理解できた。だれもあんなに苦いピーマンを食べたいとは思わないだろう。
主人公以外の気持ちを書きたければ、主人公が推測するか、本人に語らせるか、他の人から伝え聞くかしなければなりません。登場人物が多い場合は、不便といえば不便です。
客観的な描写が難しい
描写というのは、文章で物事を「説明」することです。例えばこのようなものです。
不気味な館だ。その古めかしい洋館は、蔦に覆われ窓ガラスは割れていた。
古い洋館を描写しています。上の文はなにも違和感がないと思いますが、実は難しい問題が隠れています。一人称視点の場合、この文書を語っているのは主人公です。主人公が見た館の様子を語っています。
しかし、この館が本当に不気味なのかはこの文章ではわかりません。不気味と書いてあるじゃないか! そう思うかもしれません。
でもこの館は、本当は何の変哲もない古い洋館かもしれません。主人公にとって、不気味に見えたというだけで、客観的に不気味だとは限らないのです。主人公が怖がりなので、そう見えたかもしれませんし、気分が乗らないからそう見えたのかもしれません。
このように、主人公を通してしか描写できないのが、一人称視点の良いところでもあり、弱点でもあります。
それから、他にも問題があります。
主人公が気絶したら話が進まない
主人公の視点で話が進むのであれば、気絶してしまっては話が進められません。そんなときはどうなるのでしょう。答えは「気絶している間は、話が進まない」です。気絶している間の話は他の人から伝え聞くような形式になるでしょう。
主人公の語彙力を超えてはいけない
主人公の視点なのですから、主人公が大人なのか、子供なのか、女なのか男なのかで、使う言葉が変わってきます。幼稚園児が主人公の話で、
僕は、あの時ピーマンを食さなかった事実を、受け止められないでいる。
とは思いません。普通の幼稚園生はたぶん文章を書けませんが、もし書くとしたら
ぼくはあのときピーマンを食べなくてわるかったなと思った。
とでも書くでしょう。
人の思考は、使っている言語と密接に結びついています。主人公が考えたことを描く場合は、主人公の語彙の範囲で書かなくてはいけません。
主人公がいない場面が書けない
気絶の例と近いですが、主人公がいない場所で起こったことは描写ができません。主人公が学生だとして、遠く地球の裏側で起こった事件の始まりを描写することはできません。描写するとしたら、他の登場人物から伝え聞いた、何かで情報を得た、という形をとる必要があります。
三人称視点の特徴
三人称視点は、登場人物の誰の視点でもない、物語を俯瞰するナレーターの視点です。ナレーターは、登場人物たちに起こることを客観的に語っていきます。
三人称視点の得意なこと
客観的な描写ができる
先ほどの洋館の例でいえば、一人称の場合は、「不気味な洋館」と言っても客観的に「不気味」とは言い切れないということがお分かりいただけたかと思います。それに対して、三人称で「不気味な洋館」と書いたら、誰が何と言おうと不気味なのです。誰の意見でもなく、客観的な視点から見ているからです。
全ての登場人物の心理描写ができる
三人称視点では、いろいろな登場人物の心理描写ができます。
A君はまだいけると思った。B君はダメだと思った。二人の考えは全くの逆だったが、同じ方向に走り出していた。
このように、A君の考えも、B君の考えも書くことができます。
三人称視点は客観視点なので、登場人物の心理描写ができないと主張する人もいますが、結論から言うと、三人称の場合は心理描写をしてもしなくても自由なのです。
して普通の三人称を三人称一視点、三人称神視点とか三人称完全客観型などという用語も見かけます。三人称視点で、複数の登場人物の心理描写はできます。というより、心理描写をしようがしまいが、自由なのです。心理描写を排して完全に客観で書くこともできますし、主人公の心理だけを書いて他の登場人物は書かない、全員の心理を書いてもいいのです。
三人称視点の苦手なこと
一人称視点より書くのが難しいと感じるかもしれません。三人称は誰が何を感じて何をしているのかをイメージし、明確に読者に説明しなくてはなりません。一人称視点なら、~だと思ったと書けば自動的に主人公の考えだとわかりますが、三人称の場合は、誰が考えているのかを説明しなければなりません。
客観性が一人称よりも高いので、読むのも一人称視点の小説に比べると少し努力が必要かもしれませんね。
WEBでよく見かける三人称の類型
WEB上では研究熱心な作者たちがいろいろな三人称視点の分類を作っています。分析にはいいかもしれませんし、小説を作る場合も参考になるかもしれません。ある一定のルールの上に文章を作るのは良いことです。でも、あまり凝りぎるとよくわからなくなってしまう可能性がありますので、ほどほどにしたほうがよさそうです。
三人称一元視点or三人称一視点
一人称の「私」を登場人物名に置き換えたもので、主人公の心理描写はしていいが、他の登場人物の心理描写はしてはいけないというルールのようです。
タロウは鬼が憎いと思った。キジもそう思っているようだ。
三人称神視点or三人称神視点多元型
どの人物の心理描写をしてもOKとする立場のようです。あたかも全登場人物の心の中がわかるので、神視点と名付けられています。
タロウは鬼が憎いと思った。キジもそう思った。
三人称神視点客観型
神様が雲の上から舞台を俯瞰しているイメージで描写されます。遠くから見ているので、心理まではわからないという風に説明されます。だれの心理描写もしてはいけません。
タロウは鬼が憎いと思ったようだ。キジもそう思っているようだ。
二人称
二人称はあなた、つまり読者なのですから、二人称は存在しないといっていいでしょう。
時々、下記のような読者にかたち掛けている文や、
読者諸君、君たちは今こう思っただろう、彼女に幸あれと!
読者が主人公かのように語られている下記のような文章、
君は今、古い洋館の前に立っている。威圧的なファサードに怖気づいていることだろう。
これを二人称だとする主張がありますが、この文章を語っているのは読者ではありませんから、二人称ではありません。一人称か、三人称です。
視点について、特に三人称についてはいろいろな流派があって、みな主張が違い、おまけに三人称多元視点はだ駄目とか、神視点でも一元視点の方がいいとか、視点で優劣が設定されていたりします。作品にプラスに働けば、どんな分類をしてもよいと思います。しかし、あまり縛られすぎるのはよくありません。
基本的には三人称は自由度が高いとかんがえてよいでしょう。
裏技もあります
視点について理解できましたか? 最初にどちらの視点を選ぶか決めて小説を書いていきましょう。文章の途中で視点が変わるのはNGです。どちらかに絞りましょう。
しかし、裏技もあります。章が変わるなど、明らかに文章が区切られている場合は、途中で視点を変更しても許されます。
この技を使えば、主人公の語りで日常が書かれてゆき、地球の裏側の話は三人称になる、ということが可能です。よくあるのが、犯人の犯行の様子は三人称で書かれ、探偵である主人公のパートは一人称で書かれる形式です。
とはいえ、あまりに多くの視点を混ぜてしまうのは考え物です。特に、複数の登場人物が一人称を使うと、収拾がつかなくなりがちです。
おすすめの記事
これで人称についてはずいぶん理解が進んだのではないかと思います。人称が理解できたら参考になりそうな記事を載せておきますので、参考にしてくださいね。
まとめ
小説は自由です。作者が伝えたいことが意図通りに読者に伝われば、形式に縛られる必要はないのです。とはいえ、一人称、三人称くらいは守っていくことによって、読者も安心して読み進むことができるのです。最低限のルールを守って素晴らしい作品を作ってくださいね。